沈没、そして浮上

見事に沈没しました。駄目でござんした。駄目人間さが生活を圧迫、脳ミソは自らをショートさせる事で社会からの落伍を回避。その代りゾンビ化した生活を送っていました。

また人からの手助けで助けられる事になりました。自分からは何も言ってないわけです。誰かが手を差し伸べてくれたから浮上できることになりました。全くこんなのばっかりでどうすれば自分がマトモになれるか、こいつがさっぱり分からんのだ。

眠い

最近やたらと眠い。原因になりそうなのはいろいろと思いつく。一時や二時まで起きてるとか、シャワーが適当で疲れがとれてないとか。運動してないからかもしれない。

ただ、なんというか生活が覚束なくなっていっている。いや思い出すと毎年9月の恒例になっている気もするのだが。とにかく色々とボロボロ、というかドロドロである。一年のうちで9月が一番の正念場なような気がするのだがどうだろうか。

ともかく、この9月の鬼に対抗できるどうかだ。戦いの手始めは敵の姿を明確にすることと、自らを知ることである。ああ書いてて億劫になってきた。けれど戦わねば2015年のこの時間に永遠に取り残されることになるのだ。それは嫌だな。

缶コーヒー

詰まったときの打開策はなんだかんだで缶コーヒーだ。自販機で自ら選んだ、ガシャコンと出てくる冷えたスチール缶。これが何故か精神を安定させ前向きにしてくれる。飲んでみると舌がバカだからなのかも分からないが、どれもが全部同じような味がする。これがまた良い。無駄なものばかりのようで至ってシンプルというような、嗜好品なんだが、こんなだし許してちょ、と言えそうな感じというか。

最近の娯楽はあれこれ見た目を豪奢にしすぎだと感じる。中味が追いついてないし、飾っている分中味が貧しいと悲壮感が増す。じゃあ外身を軽くすればするほど良いのかっていうとそうも思えない。アルミ缶は薄っぺらくて、中味もそんな風に感じるからね。スチールが一番バランスがいい。あとおにぎりのビニール、あれもバランスが良い。成分表を破くところは最高の仕様だと思う。て、書いててこいつは貧乏人の感性の持ち主だなとか感じたね。でもこれが自分の中身なワケだから、これを大事に外見を作っていきたいとか考えた。そんな感じ。

ひざ裏のことをひかがみと言うそうで。膕と書くそうで。これ「ひざの後ろのくぼんでいる所」らしいのだが、脚を伸ばすと窪みじゃなくなって膨らむ。これが不思議でしょうがない。何かの筋肉があって脚を伸ばすことで膝との位置関係が変わり、ひざ裏に筋肉がくるのだろうけど、想像がつかない。ふくらはぎの構造が分かれば理解できるのか。とにかくすげぇ不思議。

映画の授業① シナリオ概論、塩田明彦

黒沢清他、青土社発行、初版。

本を読むのが遅い。特に教本系は途中で疲れて詰まる。忘れた頃に続きを読み始め、後には何も残らない事も多い。なので途中ゝゝで感想を書くことにした。

 

この人はシナリオを五つに分けている。テーマ、キャラ、構成、世界設定、世界認識。

テーマとは抽象的なものではない。具体的だが大雑把な設定と展開。シナリオのラフスケッチ、ずばり企画とも言っている。出来事を通じて物語は動く。その躍動のために脳が発する意思という感じ、と思う。

キャラクタの基本要素としてシド・フィールド著のシナリオ入門から引用している。劇的欲求、考え方、態度、変化。単純でいつかは卒業すべきものだが、シナリオを書き上げる上で非常に有用、チェックシートのように使う事もあると。内面、行動、限りない日常の要素からキャラは想像される。そのキャラクタ性は多面的で、人間的、そして想像される行動の逆をとらせると躍動感が出る。また、在り得なくともキャラに忠実であれば個性となる。

羅列された出来事の視点、情報の順番を入れ替えてやる事で面白くする事が出来る。また、キャラクタが出来事を引き寄せ、それらの関係性は薄いのがエピソード中心。主軸に沿って出来事が展開され、それぞれが関係しながらラストに向かって収束していくのがストーリー中心。

世界設定は物語の内のルールであり、これは破られてはならず、積み重ねていく事によってキャラクタや物語がイキイキとしてくる。

世界認識は現実、世界、それぞれの出来事への作家の認識そのものであると。これらは嘘をつくことが罷り通らない、作家自身、人格そのものであり、これが面白ければ物語も面白くなるという。

カップラーメン

面倒くさがって食事をカップラーメンにすることが多々あるが、決まって食った気が全くせず2食目を食べることになる。内容は様々で、マックやサイゼリアのときもあれば、冷え飯にお湯と醤油をかけたヤツのときもある。でも1食目で一応腹は膨れてるから、一口美味いと感じてからは拒否する身体にせっせと入れていく作業になる。美味いんだけど不必要な感じがする、とか考えながら食べる。けど一番の無駄は間違いなくカップラーメンで、毎度毎度のこの茶番がいい加減不要だと、ついカップラーメンを食ってそう思ったわけだ。

コミュニケーション

またやってしまった。コミュニティに甘えてやりたい放題。訳の分からん私事ばかり書き込まれる気持ちは一体どんなだろうか。

甘えたがりは対等に話す術を持たないのだ。上か下かで仲良くやる事が出来ない。もうどうしようもないような気分になる。惨めだなぁと思うが、でもこれは脳内の自分のイメージであって鏡を見たわけではないのだった。

容姿を映す鏡でなく、印象を映す鏡は無いのか。無いのだろうなぁ、自分にはどうしたってバイアスかけちゃうから。それが人間である苦しみなのかも知れない、とか。抱えて生きるしかないのか。はぁ。