絵とは

コミュニケーションの手段の一つなのではないか、と思う。最近気づいたことである。ニャロメロン氏の言葉が切っ掛けになったものであった。

昔は絵、といっても落書きをよく描いていた気がする。いや気のせいかもしれないが、ともかく絵を描くという行為に対しての憧れだったりとか、楽しさというものが心の中にしっかりと根付いていたように感じる。今もその気持ちは心の中に変わらず巣食っているのだが、しかし今は絵を描くなんて極めて稀な事になった。絵を描くことが楽しくて好き――けれど描いた絵は一枚も無い。そんな状態になった。

昔と今の違いを計ろうにも明確な物差しは存在しない。ただ、絵を描くという行為が苦痛になったのは確かだ。自分の中に何かイメージが存在するのに、まるで表出されない。そんな気分に陥ることが多くなって、遂には何も描かなくなった。

そんな時、冒頭のような出会いと気づきがあったわけだ。絵とは言葉やボディランゲージと同じものである、という事の発見に。表現という言葉の、これが意味だろうか。

昔は、それこそ言葉を覚えるように絵を描いていたのだと思い至った。誰かに伝えるために絵を描いていたことを思い出した。そして、今の自分が憧れによって死に瀕したと分かった。それまで全く未知だった自分の知らない絵だとか、音楽だとかそういうものに触れてから絵を描かなくなった。何てことはない、自分のイメージってのが憧れたモノの丸写しでしか無かっただけのことだった。手段と目的が完全に逆転していた。

絵は手段だ。それは飾った嘘を伝えるのをひどく嫌がる、嘘を嫌う意思疎通の道具だった。それが分かった。